前回のBlogでは色々とご意見をお寄せ頂き、ありがとうございました。どうするかは、まだ思案中ですが、少しでも菜の花屋を訪れる人が満足いくものであるようにしたいと考えています。
今日は1日テレビは震災関連のことでいっぱいになるのでしょうね。もうなのか、まだなのか、人それぞれ感じ方は違うでしょうが、1年経ってしまったのですね~
久々の記事がよりによって、今日というのも何かの縁と言うか。ひとつ、お話を思いつきまして、それをついさっきまでポチポチと打っていました。
掲載しても良いものなのかわからないですが、逆に言えば今日しか掲載できない作品なので。どんな話でも読んでやるよ、という方だけどうぞご覧下さい。しょせん、制作完了まで3時間クオリティ・・・。
ちなみにGHのキャラはジョンしか出てこない上に、出てくるのは名前だけです。
菜花は、キリスト教においての説教とか、祈りの言葉も知りませんので、書かれている内容におかしいところがあるかもしれませんが、どうぞご容赦ください。
『日曜学校』
今日の日曜学校は、いつもとちょっと変わっていた。
いつもは神父さまのお話しを聞いて、それは宗教の話だったり、話題になっている世論の事だったりするけど、簡単に噛み砕いて話してくれるから特に苦でもない。話しが終われば集まった皆と遊べるという楽しみもある。
遊びがたまに奉仕活動になることもあるけど、普段やらないことは珍しいし、友達と一緒なら何でも楽しく感じる。
昼になれば親が仕事で居ない子をのぞいて、大抵は家に帰る。今日も昼にいったんは家に戻ったんだけど、昼食が済むと父さんと母さんが教会に行きましょう、と僕の手を引いた。
教会に付いたら驚いた。僕ら家族だけでなく、他の日曜学校に来ている友達の家族がほぼ全員集まっていた。友達と遊びたかったけれど、ダメよ、と母さんが教会のベンチに座る。その静かな声は、怒っているわけでもなくて、でもなぜか逆らいがたいものだった。
目のあった友達に無言で問いかけたけど、わからないと首を振った。彼もなぜ集まっているかわかっていないみたいだった。
けれど大人たちはなぜ今日、ここに集まっているのかを承知しているのか、誰もが静かに何かを待っていた。その雰囲気に影響されたか、普段は騒ぐ子供たちも神妙にしていた。
やがて矢沢神父とソテロ神父が連れ立って教会に入ってきた。少し遅れて、ジョン神父と診療所でお世話になった事のある榎本先生と八木先生、中野先生まで入ってきた。珍しい。いつも交代で診療所を受け持っているから、3人一緒のところを見るのは実のところ初めてだった。
この顔ぶれに、これから何があるのかにわかに不安になった。思わず、両隣に居る両親の服を掴んだ。その手を、ごつごつした厚みのある手と、水仕事でかさついた手が握る。もう小さい子供じゃないと、手を引かれて歩くのを嫌がったから久しぶりの感触。
懐かしいそれに、すごく安心して、胸の奥がほっとした。
その時、皆の前に立った矢沢神父が口を開いた。いつもは関西弁を喋る彼は、教会内で人を前に話すときは標準語を使う。それでも少し訛りが残り柔らかな言葉使いになるが、難しい言葉もなんとなく優しく感じるから好きだ。
「皆さん、今日はお忙しいなか集まってくださりありがとう。本来はご家族と、心静かに過ごすべき日ですが、ある意味、区切りである今日この日に、無理を承知で集まっていただきました」
静かに集まった人々に語りかけた彼は、再度ありがとうと言うとゆっくりと頭を下げた。そして、訳のわかっていない子供たちにも伝わるように、ゆっくりと話し始めた。
「1年前の今日、とても大きな悲しみと災害が私たちを襲いました」
そこでいったん話を区切った矢沢神父は、集まった人々を見回し、自分の言葉が浸透する様を見つめる。彼の言葉に、子供たちも集められた理由を理解した。
「そう、東北を襲った大地震です。あの日は我々の住む関東であっても、とても大きいと感じた地震でした。あの大きな揺れに怖いと泣いた子もいたでしょう。長く続く揺れに、不安にかられなかった人はいないでしょう。けれどそれ以上の恐れと悲しみが、私たちの隣人に襲いかかったのだと、すぐに知ることになりました」
思わずしゃがみ込むほどの地震があったあの日から、連日連夜伝えられる東北地方の映像。
まるで映画の映像のような大きな津波が船を木の葉のように揺らし、飛び上がるように堤防を越え、家を、車を、そして人を飲み込んでいく。
「なんて恐ろしいことだろう、大きな自然の前にはなんと人は無力なのだろうと、皆さんも思ったことでしょう。テレビの映像で見るだけの我々であっても、震撼せずにはいられない光景だったのです。それを実際に身をもって体験した東北の方々は、どれほどの恐怖だったでしょう。どれほどの悲しみと苦しみを、1日にして抱えることになったのでしょう」
それは決して言葉には出来ないもの。
1日にして、多くの夢と希望と可能性が失われ、悲しみと苦しみと絶望が残された。
理解も覚悟も出来ぬままに突きつけられた現実は、何て酷くむごいものだったろう。
「時間です」
腕時計に目を落としたジョン神父が小さく告げた。小さな声であったのに、静まり返っていた教会にとてもよく響いた。それを受けて小さく息を吐いた矢沢神父は、集まった人々を見つめた。
「1年前の今日、2011年3月11日14時46分を境に、失われた多くのものに掛けられる言葉を、私はいまだ見つけられません。だから、ここに集まってくださった皆さんにお願いします。どうぞ私と一緒に祈ってください。皆さんの言葉で、皆さんの思いで、ただ祈ってください」
伝えるべきものは、一体なんがふさわしいのだろう。
慰めか、労わりか、理解か、同情か。
生きている人、亡くなった人。失った人、失われた人。残された人、残していった人。
震災の被害者と、ひと括りにされる彼らに、けれど同じ立場の人間など居はしない。
祈りの言葉すらない沈黙の中、皆がみな、それぞれの思いを抱えて祈りを捧げる中で、ふと思った。彼の両手はまだ両親に握られていた。だから祈りの最中だが手を合わせることもなく、ただ目を瞑っているだけだ。
けれど手を振りほどこうとは思えなかった。握り締められたときに感じた安心感は、まだ彼を包んでいたから。
矢沢神父のように、彼にもどんな言葉を掛ければいいのかわからないけれど。
震災にあった人たちが、少しでも安らいだ心地になれるときがあればいいと願った。
かけるに相応しい言葉は、思い浮かばないけれど。
ただ、どうか。
あなたに、安らぎがありますように。